「ナイキ(NIKE)が縫わないシューズを開発中なんだ。知っていたかい?」——2005年の年末、大手素材メーカー主催の定例懇談会で、R&D(研究開発)を率いる幹部の一人が近づいてくると、おもむろにこう耳打ちした。“縫わないスニーカー”という耳慣れない言葉に戸惑い、何度聞いても理解できない私にその幹部は「2010年ごろに完成予定だ。それを見ればわかるよ」と言い残してその場を離れていった。その7年後の2012年、ナイキはアッパーをニットで編み上げたランニングシューズ“フライニット(FLYKNIT)”を発表した。それまで50パーツ以上に分かれていたアッパーを一気に編み上げたフライニットは、まさに革命的なスニーカーだった。
フライニットの登場は、3つの点で革新的だった。一つ目は裁断と縫製工程を劇的に減らし、生産にかかるコストや時間、素材の切れ端などを削減したこと、2つ目はアッパーの軽量化、3つ目が“シューズのデジタル生産”の道を切り拓き、スニーカーのサプライチェーン(素材の調達から生産、物流までの最適化)改革の道筋を描いたことだ。
1990年代にアジアの“スウェットショップ(搾取工場)”問題で悩まされたナイキにとって、手間のかかるシューズのサプライチェーン改革は最大の経営課題の一つだった。アッパーに使うレザーや人工レザー、織物、ハトメ、ソールに使う樹脂など、多種多様な素材で構成されるスニーカーは裁断や縫製、接着などの工程が多く、人手と手間の多い製品だった。世界最大のシューズのアッセンブル(組み立て)製造業者である台湾の宝成工業は、中国とベトナム、インドネシアに約35万人の労働者を抱えている。フライニットでサプライチェーン改革に道筋を付けたナイキは15年にシンガポールのフレックス(FLEX)と組んだスニーカーの大規模な生産改革プロジェクトをぶち上げている。
フライニットは裁断と縫製の手間を省いただけでなく、それまでレザーや織物といった2次元で抱えていた素材在庫を、糸という1次元に変え、仕掛り(生産途中のパーツや製品のこと)在庫の劇的な圧縮にもつながった。そのことは素材や生産機械を供給するサプライヤーにも大きな影響を与えた。それまでもランニングシューズには軽量化を狙いトリコットと呼ばれるニット素材が使われてきたが、フライニットには全く別のタイプの編み機である横編み機が必要になる。トリコットは単なる2次元の生地に過ぎなかったが、一気にアッパーを編み上げるフライニットには立体的で複雑な設計能力が必要とされるため、繊維機械の中で最もデジタル化の進んでいた横編み機が最適だったのだ。フライニットは、トリコットのメーンサプライヤーだった日本の北陸(福井、石川、富山)のテキスタイルメーカーに大きなダメージを与える一方、横編み機の世界2大メーカーである和歌山の島精機製作所とドイツのストール(STOLL)社に大きな恩恵をもたらした。島精機は18年3月期に1年間で1万5000台のニット機を販売したが、そのうちの5分の1を占める3000台がスニーカー用になるほど巨大なマーケットになった。
一種のサプライチェーン革命だったフライニットは、すぐにライバルのアディダス(ADIDAS)も追随。2010年代の後半になると「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」「バレンシアガ(BALENCIAGA)」などのラグジュアリー・ブランド、「ザラ(ZARA)」などのファストファッションも参入、スポーツ分野にとどまらず、ファッション市場全体に “ニットスニーカー”は広がった。
スピードファクトリーはニット機やミシン、ロボットアーム、3Dプリンタなどの最新鋭のデジタル機械を備え、それらがインターネットと直接つながり、一人一人のためのマスカスタマイゼーション(個別大量生産)を実現した。より早く消費者に届けるため、従来の大量生産工場では当たり前だったアジアではなく、ドイツのアディダス本社の近くに建設された。スピードファクトリーはシューズだけでなくアパレルも含めた、世界のファッション産業の生産改革の見本のような存在だ。アディダスはこのスピードファクトリーを米国でも2017年に完成させており、いずれは日本を含めた全世界での消費地生産を示唆している。
ナイキとアディダスがスニーカー革命で示しているファッション産業の未来は、一部のラグジュアリーやファストファッション企業が掲げ、混乱と矛盾を引き起こしているサステイナブル活動とは完全に一線を画している。実際にナイキは2010年代のはじめからサステイナブルを経営課題に掲げてきたし、ナイキがフライニットで実現したサプライチェーン改革を、アディダスが「ループ」でさらに発展させた完全循環型サイクルという考え方は、工業化した産業構造と矛盾せず、インターネットが実現しつつある“シェア(共有)”とも響き合う。年商4兆円のナイキと2.7兆円のアディダスというスポーツ界の2大ブランドが競うあう中で見せた“完全循環型”という未来は、20年以降最も重要なファッション産業のキーワードになることは間違いない。