二
所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森権之進 と云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持 の御徒士 である。この男だけは不思議に、虱をとらない。とらないから、勿論、何処 と云はず、たかつてゐる。髷 ぶしへのぼつてゐる奴があるかと思ふと、袴腰のふちを渡つてゐる奴がある。それでも別段、気にかける容子 がない。
ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはり外 の連中のやうに、体中金銭斑々 とでも形容したらよからうと思ふ程、所まだらに赤くなつてゐる。その上、当人がそれを掻いてゐる所を見ると、痒 くない訳でもないらしい。が、痒くつても何でも、一向平気で、すましてゐる。
すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、必 わきからこんな事を云ふ。――
「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」
「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、呆 れた顔をして、かう尋ねた。
「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」
森は、恬然 として答へるのである。
「では殺さずにとつて進ぜよう。」
同役は、冗談 だと思つたから、二三人の仲間と一しよに半日がかりで、虱を生きたまま、茶呑茶碗へ二三杯とりためた。この男の腹では、かうして置いて「さあ飼へ」と云つたら、いくら依怙地 な森でも、閉口するだらうと思つたからである。
すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。
「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」
同役の連中は、皆、驚いた。
「ではここへ入れてくれさつしやい。」
森は平然として、着物の襟 をくつろげた。
「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」
同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗を倒 にして、米屋が一合枡 で米をはかるやうに、ぞろぞろ虱をその襟元へあけてやると、森は、大事さうに外へこぼれた奴を拾ひながら、
「有難い。これで今夜から暖 に眠られるて。」といふ独語 を云ひながら、にやにや笑つてゐる。
「虱がゐると、暖うこざるかな。」
呆気 にとられてゐた同役は、皆互に顔を見合せながら、誰に尋ねるともなく、かう云つた。すると、森は、虱を入れた後の襟を、丁寧に直しながら、一応、皆の顔を莫迦 にしたやうに見まはして、それからこんな事を云ひ出した。
「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。嚔 もせぬ。洟 もたらさぬ。まして、熱が出たの、手足が冷えるのと云うた覚は、嘗 てあるまい。各々はこれを、誰のおかげぢやと思はつしやる。――みんな、この虱のおかげぢや。」
何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必 ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡 つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。……
「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。
所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森
ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはり
すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、
「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」
「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、
「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」
森は、
「では殺さずにとつて進ぜよう。」
同役は、
すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。
「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」
同役の連中は、皆、驚いた。
「ではここへ入れてくれさつしやい。」
森は平然として、着物の
「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」
同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗を
「有難い。これで今夜から
「虱がゐると、暖うこざるかな。」
「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。
何でも森の説によれば、体に虱がゐると、
「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。