縦書き


 所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森権之進ごんのしんと云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持ぶち御徒士おかちである。この男だけは不思議に、虱をとらない。とらないから、勿論、何処どこと云はず、たかつてゐる。まげぶしへのぼつてゐる奴があるかと思ふと、袴腰のふちを渡つてゐる奴がある。それでも別段、気にかける容子ようすがない。

 ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはりほかの連中のやうに、体中金銭斑々きんせんはんはんとでも形容したらよからうと思ふ程、所まだらに赤くなつてゐる。その上、当人がそれを掻いてゐる所を見ると、かゆくない訳でもないらしい。が、痒くつても何でも、一向平気で、すましてゐる。

 すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、かならずわきからこんな事を云ふ。――

「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」

「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、あきれた顔をして、かう尋ねた。

「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」

 森は、恬然てんぜんとして答へるのである。

「では殺さずにとつて進ぜよう。」

 同役は、冗談じようだんだと思つたから、二三人の仲間と一しよに半日がかりで、虱を生きたまま、茶呑茶碗へ二三杯とりためた。この男の腹では、かうして置いて「さあ飼へ」と云つたら、いくら依怙地えこぢな森でも、閉口するだらうと思つたからである。

 すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。

「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」

 同役の連中は、皆、驚いた。

「ではここへ入れてくれさつしやい。」

 森は平然として、着物のえりをくつろげた。

「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」

 同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗をさかさまにして、米屋が一合ますで米をはかるやうに、ぞろぞろ虱をその襟元へあけてやると、森は、大事さうに外へこぼれた奴を拾ひながら、

「有難い。これで今夜からあたたかに眠られるて。」といふ独語ひとりごとを云ひながら、にやにや笑つてゐる。

「虱がゐると、暖うこざるかな。」

 呆気あつけにとられてゐた同役は、皆互に顔を見合せながら、誰に尋ねるともなく、かう云つた。すると、森は、虱を入れた後の襟を、丁寧に直しながら、一応、皆の顔を莫迦ばかにしたやうに見まはして、それからこんな事を云ひ出した。

「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。くさめもせぬ。はなもたらさぬ。まして、熱が出たの、手足が冷えるのと云うた覚は、かつてあるまい。各々はこれを、誰のおかげぢやと思はつしやる。――みんな、この虱のおかげぢや。」

 何でも森の説によれば、体に虱がゐると、かならずちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。……

「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。