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始まりの詩 - 前編 - 序

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「っ…ハァハァハァ…ッ」

 普段は木々のざわめきと鳥の囀りだけが聞こえる森の中に、異色の音が混じっていた。荒い息遣いと何かから逃げるような足音。それに伴う、足が木々を掻き分けるガサガサという大きな音。常日頃は全くと言っていいほど人間が入ってくることのないこの森にとって異常な光景であった。


《人間よ…人間がいるわ》

《随分と急いでいるみたいだけど、どうしたのかしら》

《この先は人間には何もないよ》

《なんにせよ、非常事態だわ》


 森を駆け抜けていく人間の周りの木の陰で、人でない者たちが口々に囁きあう。心配する者、警戒する者、その思いは様々なようである。


「ハッ…ハァハァッ……あっ!」

 草の茂みに隠れていた木の根に躓いて音が乱れた。幸いすぐ側の木に手をついたため転ぶことはなかったが、一度リズムを乱した足は、再び動こうとはしなかった。

(ダメ…ここじゃ…まだ……)

 何度言い聞かせても息は整わず、足は動こうとしない。走って来た道を振り返る。後ろから追いかけてくる影も気配も感じられない。それを確認すると、動くのを諦めたのか、逃げてきた方向を向いたまま手をついていた木にもたれかかった。追っ手のことを考えてか、座り込むことはせず、立ったままで荒げた息を抑えようと勤める。思わず見上げた上空は木々に覆われ、暖かな木漏れ日を浴びせている。ふと、柔らかな風が頬を通り抜けていった。空気が濃い、土の甘い匂いも感じる。人の手の入っていない、肥沃な場所だった。

 

「痛ッ…」

 自分が無意識に逃げ込んだ場所にうっとりしていた所を、肩に走った痛みが現実に引き戻した。

(見惚れてる場合じゃなかった…)

 痛みの走った左肩を見る。深緑色の布が破られ、そこを中心に黒く染まっており、未だじんわりとその範囲を広げていた。逃げる途中に、持っていた薬草で血止めの応急処置をした筈だが、意味を成していなかった。

(毒があるなんて聞いてないわよ…)

 血止めができていないとなると、追いつかれる可能性ができている場合と比べてぐんと高くなる。目が使えなくても血の匂いだけで十分居場所を探ることはできるだろう。この先のことを考える。何とかして逃げなければ、そして肩を治療しなければいけない。もっと「濃い」所へ行けばまだ可能性はある。しかし、その「濃い」場所はどこかと、更に考えようとすればするほど、痛みと血が足らないせいで考えがまとまらない。こんな事なら肩など見なければ良かったと思っても後の祭りであった。
 


《見て、血よ。血が出てるわ》

《この場所で血を流すなんて…》

《『彼』に伝えなくちゃ》

 聞こえてきたその言葉に顔を向ける。木の葉が揺れ、1枚だけヒラリ、と風に舞って落ちていったが、人影も、獣の姿も何も見えなかった。

(主がいるのか…)

 聞こえたその言葉に眉間に皺を寄せた。見えざる者たちの話ぶりからすると、その恐らくこの一体の主であろう『彼』は血、そして恐らく争いを嫌っているらしい。『彼』が自分の存在を知ったら酷く怒るだろう。知らせが『彼』の元に届く前にこの地を抜けなければならない。しかし、今の状態で見えざる者の伝達の速さに敵う事などできないであろうことは容易に窺えた。あとできることと言えば、事情を話して赦しを請うだけだとは思うが、果たして聞き入れてくれるか、そして何より、この状態でいつまで持つか。


(せめて、もう少しだけでも「濃い」所へ…)

 どうせもう動いても同じことだと考え、「濃い」と思われる方向へ動き出す。


《あぁ!人間が動くわ!!》

《待って!今『彼』に…あれ?》

《え?えぇ!?》

 少し体力が回復したのか、何とか足が動きそうだったので、木に手をつきながら歩き出すと周りがざわつきだした。しかしそれに構うことなくゆっくりとながらも歩みを進める。毒が体内に回ってきたのか、視界が霞んでぼやけて見える。一歩足を進めるたびに己の足に鉛の塊がついたように重く感じられた。それでも感じられる気配だけを頼りに足を動かす。見えざる者たちの様子が変わったことにも構っていられなかった。

 
(何…?「濃い」ところが近づいて…る……?)

 必死に気を配って「濃い」空気があるところを探していたはずが、容易にその場所が感じられるようになり、不思議に顔を上げる。既に毒のせいで体は傾き、倒れかけていた。


(光…?)

 気を失う寸前、彼女が見たのは眩しいまでの白い光と、人影だけだった。
 
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