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「リー、何作ってるのー?」
突如後ろからかけられた、もう聞き慣れた声にゆっくりと振り返る。出会った時と同じ好奇心旺盛な金色の双眼がこちらを見ていた。
「カミュ様、もう地狼は大丈夫なの?」
「うん、無事赤ちゃんも立ち上がったしね。あ、これくっきー?」
いただきまーす、とテーブルの上に置いてあった出来立てと思われるのを一つ取って口に頬張る。相変わらず周りにいる見えざる者――精霊達が《カミシュったらはしたないわー》と口うるさく声をかけるが、どこ吹く風といった様子で気にせずに満足そうな顔で口を動かしている。
二人が出会ってもう六月以上の時が流れた。始めの二月ほどは毒の抜けぬ体を癒すため、そして失った体力を戻すためにカミシュの下に留まっていた女性――カミシュが「リー」と呼んだ彼女――も、三月目に入る頃にはすっかりと毒も抜け、体長も良くなり、カミシュの下を発ち、魔法使い、そして狩人の仕事に戻っていった。
そんな彼女が未だにカミシュの下にいる理由、それは「カミシュ本人が気に入ったから」と言う実に単純なものであった。
人間と会うのは初めてだと告げたカミシュはかいがいしくリーの世話を焼き、人間に詳しい風の精霊に話を聞きながら、自分には必要のない料理まで作った。その甲斐あって思ったよりも早く回復したリーが敬称付き、且つ敬語でカミシュに話しかけると不貞腐れ、愛称且つタメ口じゃないとここから出さないと言い、更に、回復したので戻る、と言うと何故戻る必要があるのか、と問われる。何とか「暇がある時は必ず来る」と言う条件で戻してもらえた時には、リーの中で「我がまま僕ちゃん」とあだ名ができていた。
ちなみに、余談ではあるが、リーの本来の名前はサニュイ・リニカという。友人からはサンとかサーニャとか呼ばれるのが常だったが、カミシュが「僕だけの呼び名を考える」と言った結果、リーという呼び名が生まれた。それを聴いた瞬間、「龍ってよくわからない」とリーが思ったのも無理のないことであろう。
「リーは、確証も謂れもない理と、押さえ切れない激情、1つしか選べないとしたらどっちを取る?」
焼きあがったクッキーを全て器に移していると、椅子に腰掛けたカミシュが両肘をついて試すような笑顔で訊いてきた。その手にはクッキーが2、3枚摘まれている。
「理と激情?」
「そ」
どっち?と再度訊かれる。その瞳は楽しげに揺れている。からかわれているのだろうか、そう思ったが、瞳の奥が真剣なことに気付いて訊かれたことを反芻する。
「…比べるもの、それって?」
「時によってはね」
意味深な言葉で返された。リーにしてみれば、どうも比べる対象にはならない気がする。
紅茶を入れながらも理と激情を天秤にかけなければいけない状況を考えてみたが、1つさえも思いつくことができず困り果ててしまった。これでは、答えが出せそうにない。
「状況が浮かばないから、なんとも言えないわ」
紅茶を注いだカップを差し出しながらごめんなさい、と言うと、「そっか、ごめんね」と何故か納得した様子でカップを受け取った。そしてクッキーの入った器と紅茶を手にすると、先程の遣り取りなどまるでなかったかのように「これ、むこうに貰ってくね」とニコニコと笑いながら精霊たちの待つ先へと行ってしまった。
カミシュは子供をそのまま大人の大きさにしたような龍だった。面白いことが好きで、知らない世界には足を突っ込みたがる。興味を持ったら一直線で、障害となるものがあれば力付くでも退けてしまう。かつ、龍であるがゆえにそれができてしまう。知慮深く、慎重さを求められる魔法使いであるリーにとって、周りにはいない性格だった。
けれど、と自分用に手元に残したクッキーを頬張りながら、精霊たちの話を聞くカミシュの姿をぼんやりと見つめる。その表情は真剣で、どんな些細な情報も、愚痴でさえも聞き落とさない。そして、的確にアドバイスをしていく。
こういったところは流石と言うか、きちんと成長したのだな、と感心する。世界の頂点に立つ種族として、本能的に持っているのかもしれない。
リーの視線に気が付いたカミシュが振り返り、クッキーを掲げ、にっこりと微笑む。「おいしい」とでも言いたいのであろう。それに笑顔で手を振って答える。
暖かな太陽のような、包み込まれるようなその笑顔に惹かれている自分を感じて、リーは困ったような、悲しむような表情でそっと溜め息をついた。
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